日本史 – 解説・問題 – 8世紀前半 (700年~749年)
解説
大宝律令
大宝律令の中央集権統治体制・地方官制についての画像。 |
大宝律令(たいほうりつりょう)とは、701年(大宝((たいほう))元年)に制定された日本の律令(りつりょう)の事。 ※律令とは、唐(とう)の制度をモデルに日本にもたらされたもので、律(刑法)と令(行政法・民法など)に基づく成文法体系(明文化された法システム)による中央集権的な国家支配体制の事。 ※明文化(めいぶんか)とは、誰が見ても分かるように明確な文章や文書として書き表す事。 そして、大宝律令により天皇を中心として二官八省(神祇官((じんぎかん))、太政官((だじょうかん)) – 中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省((ぎょうぶしょう))・宮内省・兵部省((ひょうぶしょう)))という、官僚機構を骨格に持つ中央集権統治体制が成立し、役所で取り扱う文書に元号を使用する事、印鑑を使用する事、定められた形式で作られた文書しか受理しない事といった、手続きの形式を重視した文書主義が導入された。 ※神祇官とは朝廷の祭祀(さいし)を司(つかさど)る官庁であり、太政官とは司法・行政・立法を司る官庁の事。 また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められた国郡里制(こくぐんりせい)が導入され、中央政府から派遣される国司(こくし、くにのつかさ、くにのみこともち)には多大な権限が与えられ、地方の豪族がその職を占めていた郡司(ぐんじ、こおりのつかさ)にも一定の権限が認められた。 ※地方官制(ちほうかんせい)とは、中央政府が地方を統治するために定めた行政組織・制度の事。 |
和同開珎
和同開珎の画像。 |
和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)とは、708年6月3日(和銅元年5月11日)から日本で鋳造(ちゅうぞう)・発行された銭貨(せんか)の事。 これは日本で最初の通貨(全称((ぜんしょう)):流通貨幣((りゅうつうかへい)))であり、皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)の1番目にあたる。 ※皇朝十二銭とは、708年から963年(応和3年)にかけて律令制下の日本で鋳造された12種類の銅銭の総称の事。 また和同開珎は、厚手(あつで)で稚拙(ちせつ)な古和同(こわどう)と、薄手(うすで)で精密な新和同(しんわどう)に分けられ、新和同は銅銭しか見つかっていないため銀銭廃止後に発行されたと考えられている。 また古和同は、さらに不隷開(ふれいかい)と隷開和同(れいかいわどう)に分類され、「隷開」とは「開」の文字が隷書体風に「開」字の第2画と第5画に切れ目が入り開いたものの事。 ※隷書体(れいしょたい)とは、漢字の書体の1つであり、八分隷(はちぶれい)・八分(はちぶ)・分書(ぶんしょ)とも呼ばれている。 |
奈良時代
奈良時代の民族衣装や文化の画像。 |
奈良時代とは、広義では710年(和銅3年)に元明天皇(げんめいてんのう)によって平城京に遷都(せんと)してから、794年(延暦((えんりゃく))13年)に桓武天皇(かんむてんのう)によって平安京に遷都されるまでの84年間の事であり、狭義では桓武天皇により長岡京に遷都されるまでの74年間の事。 また、この時代では唐(とう)の制度や文化を積極的に取り入れ、平城京を中心に中央集権的な律令国家が完成し、仏教が発展し万葉集や古事記といった日本独自の文化や文字文化の基礎が確立された。 |
平城京
奈良市役所の平城京復元模型の画像。 |
平城京とは、710年(和銅3年)からの奈良時代の日本の首都であり、唐の都(みやこ)長安城(ちょうあんじょう)を模倣して大和国(やまとのくに)に建造された都城(とじょう)の事。 現在の住所では奈良県奈良市、大和郡山市(やまとこおりやまし)に位置している。 また、平城京へ遷都した理由は、日本の首都は平城京の前は藤原京(ふじわらきょう)だったが、藤原京は衛生環境が悪く、水利(すいり)や物流が不便で、藤原氏の影響力排除や唐の長安への意識、新しい律令国家の象徴とする事などだった。 |
墾田永年私財法
墾田永年私財法についての画像。徳川家康の命によって書写された慶長御写本『続日本紀』より。 |
墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)とは、743年6月23日(天平((てんぴょう))15年5月27日)に聖武天皇(しょうむてんのう)の勅(ちょく)により発布されたもので、墾田(自分で新しく開墾した田地)の耕作権の永年私財化を認める法令の事。 またその背景には、人口増加と口分田(くぶんでん)の不足があり、墾田への動機付けを強める政策が始まり、天平の疫病大流行により大打撃を受けていた事で、社会復興策の一面もあった。 そして、豪族や社寺が開墾を進め土地私有に動いた事で荘園制(しょうえんせい)が成立し、班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)の崩壊の原因を作った。 |
問題
大宝律令
| 大宝律令とは、いつの何の事で、それにより何が成立し何が導入され、地方官制については何が導入され、何に権限が与えられ、何に一定の権限が認められた? |
正解大宝律令(たいほうりつりょう)とは、701年(大宝((たいほう))元年)に制定された日本の律令(りつりょう)の事。 ※律令とは、唐(とう)の制度をモデルに日本にもたらされたもので、律(刑法)と令(行政法・民法など)に基づく成文法体系(明文化された法システム)による中央集権的な国家支配体制の事。 ※明文化(めいぶんか)とは、誰が見ても分かるように明確な文章や文書として書き表す事。 そして、大宝律令により天皇を中心として二官八省(神祇官((じんぎかん))、太政官((だじょうかん)) – 中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省((ぎょうぶしょう))・宮内省・兵部省((ひょうぶしょう)))という、官僚機構を骨格に持つ中央集権統治体制が成立し、役所で取り扱う文書に元号を使用する事、印鑑を使用する事、定められた形式で作られた文書しか受理しない事といった、手続きの形式を重視した文書主義が導入された。 ※神祇官とは朝廷の祭祀(さいし)を司(つかさど)る官庁であり、太政官とは司法・行政・立法を司る官庁の事。 また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められた国郡里制(こくぐんりせい)が導入され、中央政府から派遣される国司(こくし、くにのつかさ、くにのみこともち)には多大な権限が与えられ、地方の豪族がその職を占めていた郡司(ぐんじ、こおりのつかさ)にも一定の権限が認められた。 ※地方官制(ちほうかんせい)とは、中央政府が地方を統治するために定めた行政組織・制度の事。 |
和同開珎
| 和同開珎とは、いつからの何の事で、日本で最初の何であり、何の1番目で、どの様に分類されるか? |
正解和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)とは、708年6月3日(和銅元年5月11日)から日本で鋳造(ちゅうぞう)・発行された銭貨(せんか)の事。 これは日本で最初の通貨(全称((ぜんしょう)):流通貨幣((りゅうつうかへい)))であり、皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)の1番目にあたる。 ※皇朝十二銭とは、708年から963年(応和3年)にかけて律令制下の日本で鋳造された12種類の銅銭の総称の事。 また和同開珎は、厚手(あつで)で稚拙(ちせつ)な古和同(こわどう)と、薄手(うすで)で精密な新和同(しんわどう)に分けられ、新和同は銅銭しか見つかっていないため銀銭廃止後に発行されたと考えられている。 また古和同は、さらに不隷開(ふれいかい)と隷開和同(れいかいわどう)に分類され、「隷開」とは「開」の文字が隷書体風に「開」字の第2画と第5画に切れ目が入り開いたものの事。 ※隷書体(れいしょたい)とは、漢字の書体の1つであり、八分隷(はちぶれい)・八分(はちぶ)・分書(ぶんしょ)とも呼ばれている。 |
奈良時代
| 奈良時代とは、広義ではいつ、誰が何をし、いつまでの事であり、狭義ではいつまでの事で、そしてその時代では何が完成し何が確立された? |
正解奈良時代とは、広義では710年(和銅3年)に元明天皇(げんめいてんのう)によって平城京に遷都(せんと)してから、794年(延暦((えんりゃく))13年)に桓武天皇(かんむてんのう)によって平安京に遷都されるまでの84年間の事であり、狭義では桓武天皇により長岡京に遷都されるまでの74年間の事。 また、この時代では唐(とう)の制度や文化を積極的に取り入れ、平城京を中心に中央集権的な律令国家が完成し、仏教が発展し万葉集や古事記といった日本独自の文化や文字文化の基礎が確立された。 |
平城京
| 平城京とは、いつ何を模倣してどこに造られ、現在ではどの都道府県・市区町村に位置し、なぜ平城京へ遷都した? |
正解平城京とは、710年(和銅3年)からの奈良時代の日本の首都であり、唐の都(みやこ)長安城(ちょうあんじょう)を模倣して大和国(やまとのくに)に建造された都城(とじょう)の事。 現在の住所では奈良県奈良市、大和郡山市(やまとこおりやまし)に位置している。 また、平城京へ遷都した理由は、日本の首都は平城京の前は藤原京(ふじわらきょう)だったが、藤原京は衛生環境が悪く、水利(すいり)や物流が不便で、藤原氏の影響力排除や唐の長安への意識、新しい律令国家の象徴とする事などだった。 |
墾田永年私財法
| 墾田永年私財法とは、いつ、誰が行い、何の事で、その背景、その影響は何? |
正解墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)とは、743年6月23日(天平((てんぴょう))15年5月27日)に聖武天皇(しょうむてんのう)の勅(ちょく)により発布されたもので、墾田(自分で新しく開墾した田地)の耕作権の永年私財化を認める法令の事。 またその背景には、人口増加と口分田(くぶんでん)の不足があり、墾田への動機付けを強める政策が始まり、天平の疫病大流行により大打撃を受けていた事で、社会復興策の一面もあった。 そして、豪族や社寺が開墾を進め土地私有に動いた事で荘園制(しょうえんせい)が成立し、班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)の崩壊の原因を作った。 |
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和同開珎の画像。
奈良市役所の平城京復元模型の画像。
墾田永年私財法についての画像。